"彼方の家"
サイト・スペシフィック・インスタレーション / 恒久設置作品
協賛:月出工舎 2020年より着手
大正時代に建てられた古民家とその周辺域を、長期計画で修復・再生し、詩的空間として蘇らせます。
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彼方の家
この家はひっそりと扉を開き
訪問者を招き入れる。
その人の最も個人的な思い出が
ここを訪ねてきて「住む」ことができるように。
この家は、近くにあるのに遠くにある
昔にあるのに今にある
外にあるのに中にある。
この家は、さなぎのよう
その体内に誰かの思考、記憶、夢を溶かし込み
まだここにいない彼方の子供の視線でもって
現在を過去として思い返している。
(田中奈緒子)
わたしたちの内側にある「家」
都心からほど近い千葉県市原市。多くの集落では過疎化が進み、古い民家が空き家となったまま佇む。
家というものは本来、その土地の自然環境にある素材でによって作られ、それはまるで人格を持った生き物かのように、
その社会のあらゆること— 人の暮らし方、生業や信仰さえも — 反映するものである。
人は誰でも、家に帰る。人は誰でも、何らかの家に生まれ、育つ。そして誰もが、心の奥底に「家」の元型のようなイメージを持っているものだ。
まだ言葉を知らなかった幼い頃に、すべての感覚を使って掴み取っていた「私のいる/私である場所」の感触の記憶。
そのような自分の存在の根源と切り離せない「家」のイメージを内部に持っているからこそ、人は毎日世界のどこかで新しく根をはり、
生きて行けるのだと私は思う。
高層マンションの並び立つ都市のすぐ隣で、空き家となって佇んでいる古い家に対峙することは何を意味するのだろう。
それは私たちの生活様式の急激な変化について省みるだけでなく、私たちの心の空間に何が起こっているのかを考えることでもある。
今日、都市環境に生まれ育つのが当たり前になった私たちの内部にはどんな「家」のイメージの姿があるのだろう。私たちの中の「家」も、住む者がいなくなり、何かが置き去りにされているのだろうか。





元の状態に戻って行くにつれ、様々な片隅の空間が謎めいた魅力を放ち、
家が呼吸をし始めるようだった。
修復作業 -- 時代を遡る旅
この築約100年の秋田邸に対峙するにあたって、私はまず最初に、できる限り初期の状態に戻す作業から始めた。
高度成長期に設置されたであろう台所の流し台やガスコンロを破棄し、増築された床部分を取り外した。防寒用に後から張られた人工素材を引き剥がした。
更に前の時代に取り付けられたであろう天井部分を剥がした。囲炉裏やかまどの跡が出現し、軒下からは様々な農耕具が出てきた。
インスタレーションに用いられているのはほぼすべて、この家でかつて使用され、放置されていた家具や小物である。
床板については、一旦すべて取り外し、修復の後、オリジナルのものを入れ直している。
「家」と、私たちの中の「自然性」
「家」というものは本来、人の自然・本能的な営みー食事、眠り、生殖、分娩や死といった生存に関わる無防備な状態ーを守り、存続させる空間だったのではないだろうか?今日ではそのような「家」が担って来たはずの様々な機能は都市の中に分散し、そこに生まれ育つ私たちは、自分の生存を保証する機能を「家」ではなく都市に託して生きているといえるかもしれない。技術が発達し、より便利で快適な生活環境になった代わりに、私たちの中の「自然性」に対する感受性は、どこかに置き去りにされ朽ちかけているのかもしれない。
都市環境で生まれ育つ私たちの子供のそのまた子供は、
もう道端で赤とんぼに出会うことはないのだろうか。
彼岸花の燃えるような赤を見て、向こうの世界を思い描くことも、
もうないのだろうか。
この家が夢を見、その何かを保持し醸成する場所になれないだろうか?



