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雪のパフォーマンス「ZONE」 をめぐって考えたこと

田中奈緒子

 

2016年冬。新潟は十日町に位置する越後妻有里山美術館の企画展の枠内で、雪を

扱ったパフォーマンス作品を作るという機会に恵まれました。

雪は自然現象。天気であり、大気のある一時的な状態です。空から舞い降りる彼らの

様々な状態。地上に降りた後の数えきれないくらい多くの異なる姿とその表情。

この常に変化し続ける「生きている」存在と対峙することで、多くの発見があり、

自分の表現行為を省みるきっかけとなりました。

 

一つの大きな気づきは、普段従事しているアートという行為が、まさにアーティフィシャル、人口の極みなのだということを改めて突きつけられたことです。偶然性を孕んだ

有機的な存在を、人の意図のままにコントロールすることはできません。彼らを相手に、観念や意図の鎧を脱がざるを得なくなり、その都度の相手の変化を感じ応じていく - 感覚を鋭敏にして、ある意味直感に開いていく他に術がなかったこと。

それ故に、表現が一種単純で率直なものになったこと。そしてそれはコンセプチュアルに作り上げた作品に対して - 比べるのは浅はかなことなのでしょうが - 決して劣るものではなかった、むしろ強い生命力に満ち溢れていたこと。

 

雪と光ー湿り気と熱とのコントラスト。

物質から直接的に想起される詩的イメージについて

 

作品のなかで、私は、小さな豆電球を好んで用います。

小さく、でも鋭い光を放つ豆電球は、かぼそく気丈なものがあります。

今作品のなかで私は小さな光を様々な形で用い、光の生み出すイメージとともに雪のなかを彷徨いました。終盤、私は小さな電球を雪の上を引きずるようにして歩き、長靴を

履いて歩を進める私の足の影が雪の山に大きく映し出されていきます。私は片方だけ

真っ赤な長靴を履いています。そしてある時、私は雪の中にもう一方の赤い長靴を

見つけます。足元の小さな電球は、赤い長靴を照らし出し、私は手を広げてその電球を

掴みます。電球は熱く熱を放ち、溶けた雪で濡れていました。私の手のひらも、濡れて

いました。私はその熱い小さな電球を手のひらで包み、拳を作りました、すると私の拳が光に透けて真っ赤に染まります。私の拳が赤く染まったその瞬間、前列に座ってみていた7つくらいの女の子が、ハアッと息を呑むような、音のない感嘆の声をあげました。

私はドキリとして - 何故ならその時私も同じようにハアッと息を呑んだのだから - 自分の心臓の鼓動を感じ、拳を頬に近づけて上を見上げました。そこには星と月があって、

拳の中の光と呼応するように小さく弱く光っていました。

 

私の考える、アートという行為の出発点

 

制作中、また本番のパフォーマンスのまさに真っ最中にも、雪との直接的な関わり - 雪を踏み、雪と格闘し、湿り気を肌に感じ、手の中で溶けていくこと、自分の息が白いこと、長靴の中のかじかんだ指が痛いこと - そういった全ての身体感覚から想起されるイメージが生命力を持って自分のなかで躍動していくのを感じました。

その雪との関わり合いのなかで私は、どこか心細さや不安にも似た、でもそういった言葉では表現しきれないある「心持ち」が自分のなかに現れては消えるのを、驚きを持って

感じていました。そしてその心的状態は、何十年も何百年も昔から深い雪と共に冬を

過ごしてきた私の見ず知らない人々が、きっとずっと感じてきたであろう何らかの

「心持ち」に一瞬繋がるように感じられたのです。長い長い冬の間、2mを超える雪に

閉ざされた階下の台所で電気をつける。繰り返し繰り返し、雪はやってくる。毎日、

きっと数え切れない人々が、雪と格闘しながら、生きている自分の身体の温かみを感じていたろう。

 

人がなにか行為をする。環境と意図が出会う。その関わりあっている部分 - 連動したり、拮抗したり、溶け合ったり、また予想もしない変化が起きたり - それを繊細に読み取る

こと、それがアートという行為の出発点なのかもしれません。それはとてつもなく単純なことかもしれないけれど。

雪が私の手のひらで溶けていく。その冷たさと熱さを感じている、私の意識と心の存在の不思議さを、改めて感じることが。

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